レインボウ・ジャーニー

アセンションをご一緒に!Yahoo!ブログで13年間続けてきたブログを今回こちらに移行しました。主に"目覚め~despertando.me”などからの転載記事になりますが、折りを見て自分の文章も織り交ぜていこうと思っています。魂の旅は、まだまだ続きます……。

「蕨野行(わらびのこう」を考える。

 こんにちは。
 早いものでもう11月も終わりですね。さすがに寒くなってきました。
 相変わらず色んな映画をジャンルを問わず観まくってますが、そんな中でひとつ、心に染みわたる映画に出会ってしまいました。

 「蕨野行(わらびのこう)」。
 2003年製作。恩地日出夫監督、市原悦子主演。
 芥川賞作家、村田喜代子の同名小説が原作。

 江戸時代中期。その村には秘したる約定があった。
 60歳を過ぎた老人は”蕨野(わらびの)”と呼ばれる人里離れた原野に移り住まなければならない。
 村から半里ほど離れたその原野には、老人達が住む為の家が数件建っているきり。
 その地に作物を植えることは許されず、蕨野入りした老人達は、毎日村へ降りては村人の仕事を手伝うことでその日の糧を得る。身体の具合が悪く村に降りられなければ、その日は1日飢えることになる。

 数年に一度巡ってくる凶作はどうしても免れず、若い者たちの糧を確保するため、身体の弱い年寄りは犠牲にならざるをえなかった。村全体が生き残る為の、昔からの知恵なのだという。
 残酷な処置ではあるが、そうでもしないと生きていけないほど、当時の農民たちの暮らしは厳しい状況に置かれていたということだ。


 その年蕨野入りした老人は8人。村人達は彼らのことを”ワラビ”と呼ぶ。蕨野入りした者達には、もはや名などいらないかのようだ。でも、面白いのは、当人達も自らのことを”ワラビ”と呼ぶことだ。
 彼らも又、若い頃、年寄り達をワラビとして送り出してきた。今年はただ自分達の番が来たに過ぎない。今の若い者達も、60になれば、やはりワラビとして村を離れる。誰もがそのことをわきまえているのである。
 その明確に引かれたラインのようなものを目の当たりにする時、こう考えずにはいられない。
 村という共同体の中で、当時の人達はきっちりけじめを守って生きていた。そして、そのけじめというのも、自分の家族や村全体、つまり自分以外の人々に対する思いやりや気遣いが基礎になっていたのだということを。

 冒頭の1シーンに、ワラビの一人がまだ小さい孫と話しているところがある。正確な台詞を再現出来ないのが残念だが、だいたい内容的にはこういうようなことを言っていた。
 孫が無邪気に聞く。「じゃあ、おばばは、ワラビになってしまうのか?」
 ワラビ達が村に降りて仕事を手伝っている最中のことである。孫にはまだ、何故おばばが村を出て蕨野に行かなければならないのかが、よく理解できない。 
 ワラビの一人が答える。「そうだよ。おばばはワラビになるのだよ。だからおばばが恋しくなったら、蕨野へ来るがいい。春にワラビが生えてくれば、その髭の間におばばの白髪を見つけるであろう。」
 
 村田喜代子の原作は、方言を交えた古典的な文語体で書かれているらしく、映画の台詞回しも敢えて原作のままになっている。それが、農民の会話であるにもかかわらず、リリカルな響きを与える。また、その為に映画全体が美しく格調高いものにすらになっている。この孫とおばばの会話も、本作中の本当の台詞回しで見ると、そうとう感慨深く、ひと言ひと言が心に染みます。ぜひ映画で鑑賞してみてください。

 おばばは死んでも、来年の春には蕨となって戻って来る――。そう考えれば孫は寂しくない。野に山に、自然に溶け込んで生活してきた日本人ならではの考え方ではないだろうか。

 とにかく、こういった「棄老伝説」を扱ったものであるにもかかわらず、この映画は、観ている者に生の希望を与えてくれる。
 観る前は、暗い、悲惨なだけの物語かと覚悟していたのだが、観ている間、蕨野で命ある限り生き長らえようとするワラビ達の姿に笑ってしまう場面も多く、最初のイメージは吹っ飛んでしまった。

 物語は主に、市原悦子演じる庄屋の姑レンと、嫁いで間も無い嫁のヌイ(清水美那)の間に交わされる心の会話によって進んで行く。ネットやケイタイなど無い当時のこと、実際に会話が交わされるはずもなく、要するに独り言なのだけれど、深く想い合っているいるだけに、語りかける言葉は互いに通じているかのようだ。嫁と姑という普段は対立しがちな間柄にもかかわらず、ヌイは夫よりもレンの方に親しさを感じると言う。そんなヌイに、レンは、今はわからぬかもしれぬが、いずれ男というものの良さ、頼もしさがわかる時が来るであろう、と、人生の教えを説く。二人の間に交わされる声無き会話は、厳然としてあるワラビの運命と対称的で、切ない。

 この映画は珍しく、観終わった後にも長ーーく尾を引いて、私の心に残っています。映画のひとつひとつの場面を、その思想を、ずっと繰り返し繰り返し考えてしまっています。

 多分、自分の親のこととかを思ってしまうからなのかもしれません。もちろん、この現代で、両親を蕨野のようなところへ追いやるような状況になることはないのですが、離れて暮らしているので、元気にしているかなと気がかりだったり。あと、親との心の距離感とか、色々な要素があって。

 そういう意味では、蕨野の老人達は、自分の親と重なってくるような気がして…。
 いや~、考えさせられてしまいます。

 老い、というものは、生きていればいつかは誰にでも訪れるもので。
 それはいつの日か、間違いなく自分のもとにも訪れるもので。
 蕨野は、自分の物語でもあると言えるかなあ。

 どんな風に生き、どんな風に死んでいくか、ということ、そういうことを考えさせられるのです。
 この映画、いつかまた機会があったら、逃がさず観たいと思っています。