レインボウ・ジャーニー

アセンションをご一緒に!Yahoo!ブログで13年間続けてきたブログを今回こちらに移行しました。主に"目覚め~despertando.me”などからの転載記事になりますが、折りを見て自分の文章も織り交ぜていこうと思っています。魂の旅は、まだまだ続きます……。

お待たせしました!”海流のなかの島々” 下巻についての感想です。

 上巻についての感想を書いてから、ずいぶん時間が経ってしまいました。もっと早くアップする予定だったのに、スミマセン…。その間に、夏もうつろい、段々と秋の気配を感じる時期に…。まだ突入してはないようですね。よかったよかった。 では、安心して、夏の読書、引き続いて参ります!

 海流のなかの島々 下巻

 上巻の巻末から始まっている”キューバ”の続きで始まるこの下巻では、ヘミングウェイ自身を投影しているようなトマス・ハドソンの生活が細かく描写されていく。彼は今や独りとなり、ハバナ郊外の丘の上にある持ち家”農場(フィンカ)”にいる。いつ始まったのか定かではないが、どうやら海の上で船を駆る仕事に従事しているらしい。

 大佐に会いに行くというくだりで、それが軍事関係のことであるらしいというのが中途でわかってる。ハドソンは十数日に渡る航行を終え、家に戻ったばかり。海の上で何をしていたのかはつまびらかにされていないが、彼が何かに追い立てられるかのように自分の体を酷使しているのは明らかである。ある時は18~9時間ぶっ通しで舵を取ることもある、と、家の猫に向かって彼は言う。彼の家には猫が4、5匹、犬が4匹いる。その中でもボイシーと呼ばれる猫が彼と一番距離が近く、お互いに”愛し合っている”といってはばからない。この人間と猫との愛情模様は、非常にユーモラスであり、見ていて微笑ましい気持ちにさえなってくる。

 上巻”ビミニ”の中で見られた良き父親、仕事熱心な画家ハドソンは、下巻においてはすっかりなりをひそめてしまっている。それどころかむしろ、”嫌な奴”に成り下がってしまっていると言ってもよい。ビミニで3人の息子達を海に連れ出し、魚突きをさせて砂に寝そべったり一緒に食事をしたり、時には息子達の寝ているポーチに出したベッドの横で、自分の父親としての真価を自分自身に問いただしたりして、自分の人生を真摯に振り返ったりすることもあった男が、この”キューバ”の冒頭では常に不機嫌で、横柄で無頓着で下品な、何かに凝り固まったような無頼漢に変貌してしまっている。

 まあ、これには勿論、それだけの大きな理由があるのだが。

 無頼漢とはいっても裕福なアメリカ人、キューバでも勿論たくさんの使用人を雇っている。1人のボーイを除いて殆ど全ての使用人を、彼は嫌っている。運転手のことはいつも大嫌いだ。それはこの運転手が車のエンジンの掃除をろくにしないからというだけではなく、彼が裕福なアメリカ人に対してへつらいの言葉を発するどころか基本的にハドソンのような暮らしをしている者に対してあからさまなねたみを抱いているらしいことからのようだ。現にこの運転手は、何度も口に出してこのようなことを繰り返す。「私らキューバ人が、この戦争によってどんなに辛い生活をしているか、旦那さん方にゃとても想像つきますまい」 この運転手は、富めるアメリカ人の豪勢な暮らしぶりと、貧しいキューバ人の暮らしとの大き過ぎるギャップを、言ってもせんないこととは知りつつも、ハドソンに向けて直接訴えるのである。ビミニで召使として仕えながらも一家と共に楽しくやっていたエディと比べると、ハバナのこの運転手はそんなどころではないのである。一家の為の米を手に入れるのにも苦労しているという。この時代のキューバという国の貧窮が、激しく浮き彫りにされる場面でもある。

 ともあれ運転手の毎度のこのふてくされた態度が、ハドソンの機嫌を益々悪くしていく。
 
 上巻の海の美しい描写とは打って変わって、ハバナの貧民地区やハバナ港のうんざりするような汚さを描く場面が続く。繁華街に降りて行く途中で一ヶ所だけ、ハドソンにスペインのトレドを思い出させる場所がある。だがそれもほんの一瞬で、またすぐにキューバが”左右に詰め寄る”。

 ハドソンは、休暇の初日から、しかも朝っぱらから酒を飲んでいる。髭を剃りながらミネラルウォーター割りのウイスキーを飲み、車に乗り込みながらよく冷えたトム・コリンズ(椰子汁にビターズを入れ、生のライム・ジュースに本物のゴードン・ジンを入れたもの)を召使から受け取る。

 ハバナの中心街に着いて大佐を訪ねるも、大佐は不在で、そうするとすぐさま馴染みのカフェに行き、またもやトム・コリンズを注文する。1杯目、2杯目、3杯目…。親しい友人、あまり親しくない友人、馴染みの売春婦などが声をかけて寄って来る。ハドソンは杯を重ねながら、少しずつ思い出語りなどに没入していく。

 売春婦を相手に、中国での暮らしを回想するくだりなどは、世界中を渡り歩いたハドソンの輝かしい軌跡を想像させる。そして、3人の息子を向かえたビミニでの微笑ましいバカンス…。上巻で示された彼の良き父、画家としての生活は何と様変わりしてしまったことか、と思い知らされるのである。

 その後、彼の1番目の妻であった女性の登場とあいなるのであるが、物語全体においてはそれは大したインパクトを与えてはいない。彼女は世界的に有名な女優ということだが(往年の大女優でありヘミングウェイ自身のよき友でもあったマレーネ・ディートリッヒがモデルにだということだ)、登場シーンの華々しさにしては、小説の展開にさほどの効果を上げていないのではないかというのが、私の受けた印象だ。この小説は、ヘミングウェイの遺作であり、実は完成の目もみておらず、刊行されてもいなかったものを、後にヘミングウェイ夫人と版元とが協力して編集し出版したものである。だからヘミングウェイはもしかして、このくだりをもっと後で推敲し直すつもりだったのかもしれない。

 ともあれ元夫人を”農場”に残して、ハドソンは再び出動する。軍部からの緊急指令が下ったのだ。

 そして、舞台は一変して第3部”洋上”へ―――。

 ハドソンは、追跡船の舵を取っている。ずっと伏せられていた軍における彼の任務が、メキシコ湾におけるドイツ軍の潜水艦”Uボート”の監視であることが、ここでようやく明らかにされる。

 彼らが受け取ったのは、数日前にドイツのUボートが撃沈されたという報告だった。そして、逃亡したらしい数人のドイツ兵を追い、可能であれば1人でも生きたまま捕獲せよというのが彼らに与えられた指令だった。

 ここから物語の様相はガラリと変わり、余談を許さぬ緊迫した追跡劇が始まる。私としては、この第3部が全体を通して一番、読み物として楽しめたのだが、特に、軍事命令を受けて、見えない敵を追いながら生きるか死ぬかの冒険に身を投じているにもかかわらず、男たちのチームワークの良さ、お互いをいたわり合う時の、男同士ならではの爽やかさというか、潔さ、そして運命を共にする者としての一体感の描写が実にいい。こういうものを書かせたら、ヘミングウェイの右に出るものはいないのではないかと思うくらいだ。男の世界、私ら女や子供には絶対に真の意味では入り込めない、まるで聖域とでも呼べそうな均一さがそこにはある。そこには、力が、武器が、度胸と勇気、信頼と友情が介在している。彼らは協力して各々の仕事をてきぱきとこなしていく。水や食料の調達、その管理、錨(いかり)の上げ下ろし、銃の解体、掃除など…。そんな中で、引き続き自らを痛めつけるように舵を取り続けるハドソンを、周りの人間がそれとなくいたわる様子がとてもいい。

 ”海流のなかの島々”は、ヘミングウェイの遺作であると共に、自らを投影して書いたある男の人生悲劇である。それゆえ、トマス・ハドソンに幸せな結末が訪れることはない。だが、にもかかわらず、海や砂浜や空の色、マングローヴの生い茂る島の岸辺、遠くに見えるフラミンゴの群れなどの描写はあまりにも美しく鮮明である。海を愛し、自然を愛した行動派の作家、ヘミングウェイならではの描写の中で、自然と戦闘が当然のように交錯する。それら2つは対称的であるが為にインパクトを持って読み手の心に迫ってくる。そしてその混合は、何故こんなに魅力的なのだろう?

 この物語を読み終えて、救いようの無い悲劇だという思いと、何か一風変わった飲み物を初めて飲んだときのような、妙に後を引く独特な印象が残った。
 そう、アンゴスツラ・ビターズ入りのトム・コリンズのように。