レインボウ・ジャーニー

アセンションをご一緒に!Yahoo!ブログで13年間続けてきたブログを今回こちらに移行しました。主に"目覚め~despertando.me”などからの転載記事になりますが、折りを見て自分の文章も織り交ぜていこうと思っています。魂の旅は、まだまだ続きます……。

スザンヌ・リー 私のセルフとの内省

スザンヌ・リー

2014年5月14日

私のセルフとの内省

Reflections With My SELF

5-14-14

http://www.suzanneliephd.blogspot.co.uk/2014/05/reflections-from-my-self.html

http://japonese.despertando.me/wp-content/uploads/2014/08/Screen-Shot-2014-08-25-at-10.22.48-PM-197x300.png

私のセルフとの内省

旅に出ていましたが、これは「さよなら」のための休暇です。約40年間、これが普通だと思っていた生き方にさよならを告げているのです。この40年というもの、私は何かを「しよう」と努めてきました。いま、一つとなる時です。これまではずっと、自分は何をしてきたかによって自らを定義してきました。そのため、私はたくさんのことを「して」きました。

いま、この何かを行うということではなく、存在する必要性に気づく必要があります。内なる指示に従って懸命に働いてきましたが、それが変わりつつあります。「自分のセルフとして存在する」ことへの抵抗を手放すプロセスになっているのです。目前にこの難しい課題があり、私はそれをどう「する」のがいいかよくわかりません。

ええ、また行動としての言葉です。人生を「行動で示す」。ですが、もし生きるということは行うことではなく存在することだとしたらどうでしょう。上昇している現実とは、ただ情報をアウトプットすることではなく、情報そのものを生きることだとしたら。自分自身に対し正しくあるために、優しくあるために、私は存在するということに関心を集中させています。ですが正直なところ、私の主たる関心は何かをしようとする方に向かっている。そう言わざるを得ません。

そう、これは私の人生の一段階です。私が何かをすることを許す、3Dの定義のすべてから身を引く準備はできています。ですが、私は自分の「一生懸命やっている仕事」を認められたいと思っていて、それにも気づいています。「懸命に働く」というのは私にとって「ときの声」、召集のサインです。私は自分の任務を行うため、40年間強迫観念的に働いてきました。いまは、私が自らの任務そのものとなる時です。

この新しい存在の状態は統合がベースとなっています。自分のセルフのすべての表現との統合、私の個人的な世界だけではなく惑星を分かち合うすべてとの統合です。「わたし」であるものを曖昧ながら一瞬垣間見ることはありますが、よくわかりません。もっと静かで、優しく、なによりとっても平穏です。

この静かで優しい平穏さが「存在している」という状態で、私の中に定着しようとしています。「しようとしている」と言うのは、抵抗があるのがわかるからです。この抵抗を手放すために、私は何を「すべき」でしょうかと静かに尋ねます。ですが、抵抗は行為の結果。何であろうと変えたがるものは、変えたいその対象にまた落ちてゆくことに抵抗しているに違いありません。

「降参しなさい、ただ手放すのです、ただ存在しなさい」 これが私のいまの内なる指示。それで私は尋ねます。「何に降参するの? どうすれば『ただ手放す』ことができるの? 私は誰に、何として存在すればいいの?」

私は内に行ってこの答えを探します。私の「行為で示す」世界に、答えはないとわかっているから。

内はとても静かです。ですが、静かというのは本当に安心します。いつもいつも追い求めてきたから…でも何を?わかりません。追い求めてきたものは毎回とても重要だったけれど、一度達成されると過去へと流れてゆきました。

自分の「やり遂げてきたこと」を見ることはできます。でも、やり遂げてきたことそのものとして存在するにはどうしたらいいの?DO(何かをするという行為)を通さず、ただBE(そのものとなる)にはどうしたらいい?

私はまた答えを求めて内に入ります…

「答えを求めることはできません。答えは思い出さなければね。」 と聞こえます。

「あら、それはどうも。一生かけてこんなにもやってきたのに、ただ思い出せ、それしか言ってくれないのね!」 私はちょっとした怒りを覚えて言います。

そう、また怒りがでてくる。善行を重ねてきているなら、どうしてこんなに苛立つのでしょう?それどころか、怒りをあらわにするなんて? 怒りは「良い」ものではない。私は「良い」人間であるべきなのに。

あ、また「ある」という言葉がでてきました。でも、何かに降参したのかしら。それもわかりません。

「あなたは、怒りを正直に声に出して言うことを許可したでしょう」 内から聞こえます。「あなたが『やっている』良いことばかりを並べたてて、その奥に怒りを隠しているとしたら、どうやってその怒りを手放すのですか?」

高次元に住んでいる内なる「ひとつのもの」にとっては、降参するとか手放すってことについて話すのもずいぶん簡単なことなのでしょう。彼らの世界は安全なんですもの。

「あなたの世界は安全ではないのですか?」

「ええ!ううん!ええと、いつどんな瞬間にも危険は出てくるかもしれないわ。」

「あなたはどうして危険な世界を作り上げたいのでしょう?」

「私が作るんじゃない、私の周りがそうなの。」

「ということは、あなたの『中』も危険ということですか?」 その声が尋ねます。

「私の周りにあるのは、私の『中』にあるからってこと?」 認めざるを得ません。

「いまそれを言ったことで、あなたはとても賢明な『存在としてある』状態です。」

「私が賢明で『いる』のは、私が何かをしているからでしょう。この会話を書き留めて自分は何を考えているか探っているの。つまり、私は自分の言い訳を見ないで済むよう答えを編集しているのよ。」

「たったいま、自分の言い訳に目を向けたではないですか?」

もう、声の方が勝ちです。私は機敏に答えられませんった。多分、これを投稿する時には私自身もこの記録を読み返す必要があるのでしょう。

実際のところ、編集するので何度も読み返すことになります。さらに他の人の編集も入ります。自分ではすべての間違いを見つけられないから。私は自分の書いた記事でも他の人に編集してもらうために差し出しています。これも降参です。私一人ですべてを「する」ことはできないので、自分のプロセスの一部を手放しているのです。

「全部一人で『する』って?」 声が尋ねます。

この最後の文について考えなければ。言った時に思っていたより、ずっと深い意味があるような。そう、私は自分が「それをしている」と思っていました。私の人生においては内なる声とのコミュニケーションだと思っていました。それを私、「全部一人で」って言ったのね。

私が内で聞いていることを伝える時、私は一人だという感覚にはなりません。外の世界では私は一人ぼっち、だって内なる世界では私は絶対に孤独になんかならないもの。

「絶対に孤独ではない?」 内なる声は、一言も聞き逃しはしません。尋ねてきます。

まただ、私はこの質問を深く考察しなければ。どこからこの絶対なんて言葉は出てきたんだろう?なんで私の口からそんな言葉が出たの?

「あなたが『全部自分一人でやっている』と思った時はどんな感覚がしましたか?」 あの声は私の思考をいつも聞いていて、尋ねてきます。

もちろん、私は怒りを感じましたよ。

それとも、怖かったのかな?

どちらも一緒なのでは? 私は自分のセルフ(自分自身)に答えます。

「まだ私には聞こえていますよ、私はあなたのセルフなのですから。」 いつも居るこの内なる声が答えます。

「ええ、そうよね」 私はいくらか怒って答えます。

「『いくらか』怒るなんて、それは本当ですか?」 と内なる声。

またやられた。

怒り、恐怖、悲しみ、その他すべての浮かない感情は、隠そうとすると広がってゆくだけ。

一方で、愛、喜び、創造性は隠そうとすると消えてゆく。

「あなたは私に隠しごとはできませんよ、私はあなたという存在なのですから。」内なる声が愛を湛えて答えます。「それらの特質として『存在する』にも危険を感じるというのなら、あなたの準備が整うまで私がそれらを預かっておきますよ。」

「私はいま、この幸せという存在になりたいんです!」 と私は宣言。

「では、あなたが忘れているその『あなた』として『いま』『存在する』のを私がサポートしましょう!

あなたは、この『あなた』の表現を思い出そうとしなくてもよいのです。その表現はひとりでに成長しますから。あなたはこの花を開かせることはできないのです。でも、ひとりでに花が咲くのを忍耐強く待ちながら、栄養を与えたり世話をすることはできますよ。」

「忍耐強く?」私が尋ねます。 「忍耐ははあまり得意ではないんですけど。」

「行動に対する忍耐と、『存在する』ことに対する忍耐は違います。あなたのエゴのセルフは、あなたの『行動』のすべてをコントロールしています。」

「ですが、本当のあなたのセルフとして存在するためには、愛をもってエゴを手放さねばなりません。そうすれば日常生活においてあなたのセルフがあなたと『なって存在する』時がきますから、忍耐強く待つことができます。」

いままでやってきた何よりも一番大変そう!

「怒りを感じますか?」 声が尋ねます。

答える前に、よくよく考えなければ。自分の内なるセルフと話すときに大変なのは、嘘をついても知られてしまうことです。

私はこの『自分』には本当のことしか言えません。私にもたくさんエゴの自分がいて、そんな自分には嘘をつけるし、エゴも気づきません。でも私のセルフはいつもわかっているのです。

内省して、「怒り」という言葉が私の引き金を引くのではないということに気づく。私の感情を掻き立てているのは、「忍耐」という言葉だ。

実際、怒りをリリースするにはかなりの忍耐が必要となります。それに、忍耐にフォーカスしていると、私は怒りが必要ではなくなります。怒りはいつも、どれだけの「あいだ」それが続くのか、その長さに対して生じるものだから。

「うまく分析しています。」 内なる声はずっと聞いていて、答えます。

「ということは、私がただ『存在する』ことができるようになるには、この短気な自分を手放す必要があるということ?」

「あなたが試してみてはいかがですか?」

翻訳:Rieko

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